大震災直後、成田着陸態勢の大型旅客機の決断!

地震津波により混乱する、空港
旅客機は燃料がギリギリの中、上空待機を余儀なくされた。
その時、コックピットでは大きな決断に迫られていた。


この文は実際にあった話です。
コックピットの緊張感が伝わってきます


こちらが原文記事
http://jalopnik.com/#!5783955/how-i-landed-a-767-in-tokyo-after-japans-deadly-earthquake


以下 本文(和訳


私は現在、無事だ。成田にあるクルーたちが宿泊するホテルの自分の部屋でこれを書いている。

今回のフライトは、私にとって初めての太平洋横断だった。国際線ボーイング767の機長として、つい最近、合格したばかりの新米の私からすれば、太平洋横断の旅は、控えめに言っても興味深いものだった。大西洋ならこれまで3回、横断したことがあり、大洋を渡る手筈に慣れてはいたが。

空から眺めるアリューシャン列島の景色は息を呑むほど美しく、すべてが順調、着陸態勢にも何も問題がなかった。その、東京まで100マイルという時点までは。
問題発生の最初の兆しは、日本の航空管制が、すべての航空機を待機状態にさせはじめたことだった。
最初、私たちは、よくある着陸時の混雑によるものだと考えていた。だが、社から、地震発生を伝えるデータリンク・メッセージが入り、つづいて、成田空港が点検のため一時閉鎖されていること、まもなく再開される予定であることを知らせるメッセージが送られてきた(この会社はいつも非常に楽観的だ)。

しかし、私たちが感じている現実は、あきらかに少し様相が違っていた。
日本の管制官の緊張度合いが極めて高いように私たちには感じられたのだ。日本の管制官は、私たちに対して、「無期限の」待機もありうると言ったのである。

待機状態がいつ解かれるのか。その期限を明確に示してくれる人間はいそうになかった。私は急いで副操縦士と交代要員の操縦士に、他に着陸できる空港を探し、燃料の残量を絶えずチェックするように指示した。大洋を渡るフライトの後は、燃料の残量は大概、少ないからだ。




各機の正操縦士たちが他の空港への振り替えを要求しはじめたのは、それからさして時間が経たないうちだった。おそらく10分程度だろう。カナダ航空、アメリカン航空、ユナイテッド…。全員が、燃料残量が最小限しかないことを報告していた。
私の機体は、1時間半〜2時間の待機であれば、間に合うだけの燃料が残ってはいた。
だが、言うまでもなく、この代替空港の要求が事態を複雑にしはじめていた。

日本の航空管制から、成田空港が損傷を受けたため無期限で閉鎖中であるとアナウンスがあったのはその後だった。
すると、とたんに全機が、東京近くの羽田空港への着陸を要求しだした。JALや西欧の旅客機、5〜6機が羽田へ向かう許可を得たと思いきや、今度は、「たった今、羽田も閉鎖された」と管制側からアナウンスが入った。なんてこった!
待機してばかりはいられなかった。私たちは全員で、大阪、名古屋といったもう少し遠い代替空港を探さねばならない事態に追い込まれた。

大型旅客機の欠点は、小さな空港に乗り入れができないことだ。一般的に、長い滑走路を必要とするのだ。西から東から、そうした大型旅客機が押し寄せ、全機が着陸する空港を要求し、そのうちの数機は燃料が危機的状況。管制側は、その状況を制御しきれなくなりつつあった。

緊急状態だった。燃料が危機的状況になる前に、私は名古屋へ向かう許可を得た。燃料はまだ大丈夫。これまでのところ、うまくいっている…。
ところがである。名古屋に機体を向けて数分後、私は、管制から逆コースを取れという指示を受けた。それは、「命令」だった。名古屋は飽和状態だったのだ。これ以上の航空機を受け入れられない。大阪も同様だった。

この指示によって、私たちの状況は一変した。かなり遠方の空港まで飛ばねばならない可能性を考えると、もはや「燃料、大丈夫」ではなく、「燃料、最小限」だった。
そのうえ、他に10数機の航空機が同じ状況にあったことが、危機を増大させた。全機が管制に対して、どこかに着陸許可を出してくれと強い態度で要求していた。

カナダ航空、それからどこかの航空会社の旅客機は、燃料残量が「緊急」状態に陥っていた。旅客機は次々に米国空軍基地を目指しはじめた。東京に最も近い基地は、横田空軍基地だった。
私たちもすぐさま、この基地へ向かう競争へ飛び込んだ。だが、横田もまた閉鎖されていたのだ!もはや場所がなかった。

ここまで、コックピットの中はてんやわんやの状態だった。副操縦士は無線にかかりきり、私は操縦と指示出し、交代要員の副操縦士は、向かうべき場所が燃料の範囲内なのかを算定しようと航空図と格闘。そうしながらも、アトランタの社との間をデータリンク・メッセージが行き交った。

私が選んだのは、本州の北端、三沢空軍基地だった。この燃料でぎりぎり辿り着ける場所だった。管制側は、問題が1つ解決したことにほっとしていた。私たちは、東京地区の大混乱を抜け出た。
管制側は一時、仙台へ向かわせようとしていたという話も聞いた。仙台は、沿岸の小さな地方空港で、その後、津波による浸水を受けたところだ。

アトランタ側からは、北海道の千歳空港へ向かうことができるかと尋ねるメッセージが送られてきた。(このとき航行中だった)デルタ航空の他機は、千歳へ向かっていたのだ。
このメッセージのおかげで、コックピットの中は、さらなる緊急状態へと追い込まれた。千歳空港へ向かうための、天候確認、航空図チェック、燃料確認。

オーケイ、私たちは千歳に向かうこともできた。千歳へ向かっても、燃料は危機的状況には陥らない。……これ以上の遅れが出なければの話ではあったが。
三沢方向に向かいながら、私たちは千歳へ向かう許可をとった。




が、ここが重要な思案のしどころだった。考えよう。さらに遠い空港へ向かうために、より近い、問題のない空軍基地を完璧に度外視して通りすぎてしまうなんて、本当に会社のためになるのか。……こんなことを安全報告書に書いたらどう思われるだろう?もし、万が一、間違いがあったら…。

と、そのとき突然、管制から、千歳とは全くちがう方角への指示がきた。その方向を維持しながら、スタンバイするようにというのだ。
悪夢だった。状況は急速に悪化していた。最初は東京近くで待機、名古屋へ振り替えが始まったかと思うと、東京へ逆戻り、その後、今度は三沢へ。とっておいた大事な燃料がどんどん減ってきていた。

ここから引き続く私と管制とのやりとりは、……そのままではないが、こんな感じだった。

「札幌管制へ。デルタXX便は千歳へ向かう早急な許可を要求する。燃料は最小限、待機不可能」
「許可できない。飛行パターンが満杯」
「札幌管制へ。デルタXX便は非常事態を宣言する。燃料残量少、千歳へ向かう」
「デルタXX便。了解。千歳へ向かうことを許可する。千歳アプローチとコンタクトをとってください」

もう十分だった。無期限の待機状態をとりながら、私は燃料が危機的な量に減るのを阻止しようと決意した。すでに三沢は通り過ぎてしまっていた。私は、最後の切り札を切った。……非常事態を宣言したのだ。
こうなれば、あとの問題は、社に提出しねばならないちょっとした書類だったが、そんなもんなんだっていうんだ。




私たちの機は、千歳へ着陸した。無事に。だが、燃料は、あと30分で「本物の」燃料緊急状態になるところだった。
無事というのは、いつだって気分が良いものだ。
私たちは、空港から少し離れた駐機場までタクシング(地上走行)し、そこで一休みしながら、5〜6機かそれ以上の飛行機が空港へ向かうのを見た。

最終的にデルタ航空は、747を2機、私のを含めて767を2機、777を1機、すべて千歳に着陸させた。アメリカン航空2機、ユナイテッド1機、カナダ航空も2機、見た。ANAJALの旅客機は言うまでもない。


追伸:9時間後、日本の航空はようやく飛行機にタラップをつけてくれるまでに落ち着き、やっと私たちは飛行機を降り、税関を通ることができた。……が、これはまた別の、興味深い話になる。


これを書きながらも、4度、ホテルがわずかに余震で揺れるのを感じた。45分の間に4度だ。

それでは   J.D.より



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